昭和43年9月16日 夜の御理解
ただ今から、昭和43年9月16日夜の御理解を頂きます。信心がありがたくなる。信心がうれしいもの楽しいものになっていくということは、信心にならなければ、ありがたいもの、うれしいもの、楽しいものになれない。信心をただ拝むだけ、参ることだけで、ただ話を聞くだけでそこに発信するものがない。信心というものは、私はいろいろとお教えを受けられる。お話を受けられる。そうだなあとこう思う。そうだなあと思うたら、その事をそうありがたいと願うことだと思うですね。例えば、さまざまなこれでは、おかげを受けられんはずだなあと言ったようなものが、自分の心に感じとめるわけですね。お話を聞いてこれでは、いけない。これでは、いけないと言うことを。ですから、これが、感じられたら、それを本気で思うこと。例えば、いうなら、素直になりたい。本気で素直になりたい。素直になれたら、楽だなあと思うです。人の言うことを、はあそうですかと素直に開けたら、それはそれだけでもありがたかろうと思う。素直でないから、いろいろと心の上に苦しんだりする。素直にお教えが頂ける。素直にこうぜる。素直に例えば、いろいろありますがね。本気で素直になりたいと願うということ。そのことが信心だと私は思う。そうありたいと願う。ところが、素直でないものが、素直でありたいと願う。だから、素直になれない。そこを繰り返し繰り返し、本当になりたい、本当に素直にしてくださいと言う願いを繰り返し繰り返ししていくうちにですね。信心のありがたさというものが、わかってくる。昨日御祈念にかかる前にかわべのやすこがお居けにきておるのです。4~5日前でしょうか。よっぽど真剣に思ったのでしょう。素直になりたい、素直になりたいですと。素直にしてくださいと真剣にお取り次ぎを願うんですよね。だいたい、この人は素直にお取り次ぎが取得と思っているぐらいに大体人間的に素直なんです。けれども、この人が気づいてのはね、そう意味だけじゃあなくて、信心で言う素直さ、教祖様方どうれた様な素直さ、そういう素直さを願ってのことだろう。求めてのことであっただろうと私は思うのです。ですから、そこで、真剣にお取り次ぎを頂き、そうありたいと願う心がです。もう生きてくる。生きた素直さ、唯生まれつき素直だと言ったのはね、おかげにはならんです。もうむしろ、あんた馬鹿じゃなかろうかと言われるようなもんです。**いわゆる、正直ものは馬鹿を見ると言うような結果しか生まれてこない。信心で言う馬鹿とアホ。信心で言う素直さ、これは、違うんです。だから、言うならば、信心で本気で馬鹿とアホになりたいと願う。信心で本気で素直になりたいと祈り願わしてもらうと言うこと。お取り次ぎ頂いて願うということ。そこから、私は本当の信心が頂けて来るようになると思う。そこからね、うれしいもの、楽しいもの、いよいよありがたいものが頂けてくるのですよ。なぜか、その馬鹿とアホが生きた来る。しかも信心のみ教えによってそれが生きてくる。ですから、その生きたものがね。馬鹿になれ。あほになれ。神様が教えてくださるから、そのばかとアホが本当に生きてくるから、それにおかげをいただけぬはずがない。素直に徹する。それこそ、身にも山にも上れるような道が開けてくるんばい。素直になりなさい。ただ素直さ、あの人は素直だというだけでは、いかん。生きた素直さでなからなければ、いかん。そういうお取り次ぎを頂いてからです。わおれから、丁度、その日のお花が柳だったらしいのです。それから、何日もたちますから、ここへ来てから、見たところ、あん時生きた柳がもう日が立って枯れてしもうとるという。ところが、自分の家でいきとる同じだけれども、葉が出てきておる。目が出てきてから、下に白根が出よるおる。はあ、神様は生きてござる。私が素直になりたい。本気で素直になりたいと思うたら、今日の御理解に柳の素直と言う代名詞の様に頂き、柳の様に素直にならないかんよと言われる。その柳から、もちろん、柳と言うものは、芽が出やすい白根がおりやすい木なんですけれども、合楽に生けておるのは、枯れておる。ところが*目の方で生けておるのは目が出て来て葉が出てきて白根までおりて来ておると本当に神様果たして祈りが叶うたと言うて喜んで今お届けあっておるわけなんですよ。同じ素直さでも生きておらねば、だめだと信心とはね、教えを受ける。はあ、そうだなあと思うたら、そうありたいと願わなければ、実意丁寧となれよと本気で実意丁寧にならしてもらおうとその実意丁寧になりたいと願うところから、お道の信心が始まる。それまでは、たとえば、話を聞いておっても参っておってもそうありたいお教えに忠実でなりたいというね。願う心がなかったら、信心をしておっても、しとらんと同じことです。ありたいものが生まれてこなければ、*しいものが生まれてこないです。お道で言う信心の修業と言うものは実に楽しいもの。教祖のお教えに忠実になると言うことは、このようにありがたいものはない。なぜていうなら、それには、この必ず、葉が出てくる、芽が出てくる。必ず。それがありがたい。それが生きた信心と言うふうに言うわけですよ。どうぞ一つ私どもがこんなことではおかげ受けられんのなら、どうやったら、おかげを受けられるのか、いつもそれを求め続けとかないといかん。そして、お教えを頂いてはあ、あれが私にかけておるとこうだなあと思うたら、そうありたいと、そこから、願うて行かないといけん。そこから、お取り次ぎ頂かないといけん。これじゃあ、私は人から、嫌われる。これじゃあ、私は幸せになれない。とたとえば、感じたら、それと反対のおかげの頂ける心の状態になりたいと言う切に切に止まらん心でね。それを願い続けること。信心とは、ところが生身をもっておる凡人でありますから、なら、強情な人が素直になりたいと願っても願ってもやはり強情であってやはり、失敗ばかりしておるけれども、そこんしら真剣の大橋が出ける。神様私は又、強情張りよります。神様、又、強情な虫が出ますと詫びる。そこから、一分ずつでも一厘ずつでもたとえば、素直なら素直になって、そのことが詫びれる様になったら、信心のありがたさが分かってくるんですよ。神様又、失敗しました。神様相済みません。今日、又あそこで強情になりました。というようにですね。それが反省させられる。そのことが詫びられる。そこんところに私は神様のお心に通うものが出来てくる。それが、当たり前のように信心しておってもあらたまろうともしない。いくら御理解を頂いておってもぼけーとしておる。改まろうふうがみえない。とうにしたらしいとまあ、神様は憎たらしいと思われはしませんでしょうけれども、話を頂いても話を頂いても一つも改まろうとする情が見てない。改まりたいという心がね。いわゆる、態度に現れてこなければ、人間の生まれつきというものはなかなか弱気の人もおれば、強気な人もある。強気の人が弱気になろうとなかなかむずかしいこと。けれども、そこを信心でね。それにお取り次ぎを願い真剣に願い、それを真剣に思う、祈ると言うところからです。確かに信心がうれしい物になる。ありがたいものになるね。信心の味わいというものがそこから、根を下ろしてくるのであり、芽が出てくるのである。いわゆる、生々とした詫びる心、生き生きとしてお道のお教えに忠実であろうと努める心が生きた心。私はさっきから、ノートを取りながら、それを感じたです。真剣に願わねば、いけんと思うですよね。